中学の野球部が話の舞台。野球ということがらに対してのいろんな人のいろんな思いが交錯する。
単に、これを部活に打ち込む子どもたちの物語として読むとすると、私も自分の中学時代を思い出す。
言葉の通り、仲間たちと夕陽に向って走っていたし、陸上こそが自分の生きる目的であって、走るために、跳ぶために、生きているのだと思っていた。
陸上を辞めて別のことをする自分、なんて全く想像がつかなかったし、想像する必要もなかった。
持久力がなくて基礎体力で人より劣っていた私は、中学の時は朝起きるとまず走りに出た。
一汗かいてから部活の朝練に出かける。
夕方の部活動が終わって帰宅すると、またすぐに走りに出た。
帰ってきてから夕食を食べた。
人と同じことをしていたのでは人以上にはなれない。
陸上は根本的には自分と闘うスポーツだけど、大会への出場権には各校で決まった枠があったし、誰でも出られるというわけでもないので、やはり周囲の平均よりは抜き出でない公式な記録は残っていかない。
生活の中心は陸上だった。走ることであり、跳ぶことだった。
あの頃のように、純粋に、ただ、そのことが好きだというだけでそのことに打ち込むことが当然だと思って生きている野球少年たちの心理はとてもよくわかる。
でも、この物語は私にはあまり野球の話、という印象は残さなかった。
これは、
野球をする子どもたちとその周りの大人たちの話ではなくて、
ものごとに相対する時の人間の姿勢の話だと感じた。
こどもに限らずおとなに限らず、野球に限らず、何かをするとき、人にはみんなそれぞれの思いというものがある。
それが共通していたり、全然違っていたり、よくわかったり、理解できなかったりする。
冷めていたり、素直だったり、ひねくれていたり、熱かったり、計算高かったり、本能的だったり、義務的だったり、偽善的だったりする。
これは、今の自分に置き換えてみると、仕事を取り囲む環境と同じだ。
ものすごく熱心に打ち込む者がいれば、それに「何熱くなっちゃってんのさ」と冷ややかな嘲笑を向ける者もある。
何人かの求心力がある人たちがいて、そこを取り巻く駒となる人たちがいる。
そしてそれぞれに成長していく。成長を拒む者もいる。
自分にとってはたかが○○、でもそのことに全身全霊をかけて取り組んでいる人もいる。
はっ、付き合いきれないよ、とひいてみるが、本当は、何かに本気で打ち込める人が羨ましかったりする。
ただ、スマートに格好よく生きたくて、そんなに自分はそんなに必死になったりはしないさ、ばかばかしい、などと呟いてみたりする。
一方、そんな奴のことも同じ仲間だと信じて一緒に頑張っているつもりの人々もいる。
視点が違えば現実は違って見えて、正しい人も間違っている人もいない。
みな、それぞれ。
作者は野球少年を駒にして、人の心の葛藤と、人間の種類を描き出しているような気がしてならない。
「たかだか中学生の男の子たちが、こんな会話するわけないじゃん」とは思わずに、一次元離れた場所から眺めつつ読むと、不快な倦怠感と心地よい共感が混ざって襲ってくる物語。
こんな現実もまあしょうがないか、
ありだよね。と、ある種の諦観を手に入れてちょっと楽になった全6巻。
ただいま更にこの続編、読んでます。